人生100年時代、今までにない時代の変化です。誰も知らない対応が必要です。誰か、やらなければならない。だから、価値ある対応になります。私の知っている方で80才の会社経営者がいます。100人の従業員の創立者です。

20年ほど前、警備会社として設立されました。

 

最近、募集しても人が確保できないので事業継続に不安を感じているとおっしゃってました。石田梅岩「職業に貴賤なし」の意味 – ノモア// <![CDATA[
if (~navigator.userAgent.indexOf(‘Mac OS X’)) {
document.write(‘html, body { font-family: \x27Helvetica\x27, \x27Arial\x27, \x27ヒラギノ角ゴ Pro W3\x27, \x27Hiragino Kaku Gothic Pro\x27, sans-serif; } ‘);
} else {
document.write(‘html, body { font-family: \x27Helvetica\x27, \x27Arial\x27, \x27メイリオ\x27, \x27Meiryo\x27, \x27MS PGothic\x27, sans-serif; } ‘);
}
// ]]>

「職業に貴賤なし」

という言葉は未だによく使われていますが、広義的に用いられすぎて、誤用に近い使われ方をしているような気がします。

人の作った言葉ですから、絶対に正しい思想であるとは言えませんが、用いるなら本来の意味を知っていた方が良いのではないかと思います。

 

「職業に貴賤なし」というのは、石田梅岩(いしだ-ばいがん)の教えで、

士農工商の階層は、社会的職務の相違であり、人間価値の上下・貴賤に基因しない」

というものです。

 

梅岩は、江戸時代に生きた町人出身の思想家です。

丁稚奉公をしながら、独学で儒教などを学びました。

45歳で『石門心学』(せきもんしんがく)を説き、無料講座をひらいて「勤勉、節約、布施」と「正直」であることを町人に教えました。

その論理的な思想が支持を得て広まっていき、産業革命の原動力になったとされています。

 

士農工商」は「武士・農民・職人・商人」のことです。

中国の古典「士農工商の四民は石民なり」からきています。

 

ここでいう「士農工商」は「国を支える職業」のことです。

それが転じて「すべての職業」「民衆一般」として使われるようになりました。

しかし、更に転じて「士農工商」になぞって職業階級が付けられるようになり、江戸時代には身分概念ができてしまいました。

 

元々は農工商に身分階級はありませんでしたが、商人は「貴穀賤商」と呼ばれました。

自らの手で何かを生み出すわけでなく、金銭のやりとりだけで儲けていることから、詐欺だと非難されていたのです。

 

梅岩は、「武士が治め、農民が生産し、職人が道具を作り、商人が流通させる。士農工商は世の中を治めるのに役立ちます」としました。

それが「職業に貴賤なし」という言葉の由来です。

 

ちなみに、「士農工商」という表現は、近代の教科書から消えているそうです。

消えた理由は2つあり、1つは先ほど述べたように、農工商に明確な身分上下が決まっていなかったからです。

この言葉の並び順は流通の過程を表していますが、武士が先にあることから身分階級を示したものをとして広まってしまいました。

誤解を招く表現として、教科書では本来の意味に立ち返って「天下万民」(万人)と改めたようです。

 

もう1つは、身分階級を表す言葉は「僧侶」「公家」「医者」など他にもあったので、この4文字だけでは表現しきれないからです。

 

 言葉の使い道

「職業に貴賤なし」の「職業」には、公利性が含まれています。

逆をいえば、公利性の低い仕事は含まれません。

 

梅岩は、江戸当時の町人たちが娯楽快楽で堕落していき、モラルが乱れて秩序が失われていくことに危機感を抱いており、石門心学で「勤勉で質素であること」「誠実性」を良しと説きました。

犯罪や社会秩序を乱すような行いを肯定しているわけではないんです。

 

現代では、この言葉は風俗従事者などを擁護する場面でよく見聞きします。

「需要があって成り立っているのだから立派な仕事だ」といった意味で使っているのだと思いますが、本来の意味からいうと、誤用に近いです。

 

また、立派な仕事であるかどうかを需要で決めることはできません。

泥棒の話でいえば、仲間と山分け方式をとっていたら仲間からは喜ばれます。

それを必要としている人がいても、社会に悪影響を及ぼすなら公利性に欠けます。

 

梅岩は、人間らしくあるために勤勉に務めなさい、差別しないために賢くなりなさい、と言っているので、それを理解しない人も同等だとまでは言っていません。

この考え方は「構造機能主義」や「末梢起源説」に近いかもしれませんが、できないことを肯定するのではなく、できるようになっていくことに意味があります。

 

最近は「嫌儲」も定着してきましたが、かつての商人が受けた差別を背景に持つ「職業に貴賤なし」という概念からいえば、「嫌儲」こそ排除すべき感覚ではないかと思います。

 

ただ、基本原則みたいなもので、前提に公利性がなければいけませんから、儲け方やお金の使い方に問題がある場合は、正しく問題視すべきかもしれません。

儲けるのがダメなのではなく、汚い金を許さない、ということなら必要な嫌悪感であると思います。

 

「職業に貴賤なし」という言葉は、何かの免罪符として使うのではなく、産業発展や労働構造改革等のために用いた方が、本来の性質に合っていると思います。